常盤校区・校区周辺の歴史

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街道・地名等

1.小栗街道
 校区を南北に横切る小栗街道は昔の南海道で、現在は府道大阪和泉泉南線とほぼ重なっており、熊野街道とも呼ばれています。大阪市の天満八軒屋を起点として南下し、泉州地域を縦断して紀州に入り終点の熊野に到達します。
 小栗街道という名は、小栗判官と照手姫の夫婦愛にちなんだ言い方です。重い病と障害を負った小栗判官を、妻照手姫は土車に乗せてこの街道を通って、熊野湯の峰まで曳いていき、そこの温泉で湯治したところ全快したと言われています。
 この街道は平安時代頃から熊野への参詣のため、時代の権力者をはじめ多くの庶民が通りました。白河上皇、鳥羽上皇や平清盛らが有名です。街道沿いには数々の伝説や遺跡が残されています。



 
2.轟川・轟橋

 
 春木川はその上流部、ちょうど常盤校区の北端を流れるあたりを轟川と呼ばれています。小栗街道が轟川をまたぐ橋は轟橋と呼ばれています。
 小栗判官を乗せた土車を照手姫が曳いて小栗街道を通っていく途中、春木川に架かる橋を渡るとき土車の車輪が鳴りました。これにちなんでそこを「轟橋」と呼ぶようになったと言われています。
 現在は上轟橋と下轟橋があり、13号線は上轟橋を通ります。両橋の間にはJR阪和線が走っています。

3.額原
 額原は常盤校区と八木南校区にまたがる地域です。
 白河上皇が熊野詣で小栗街道を通ったとき、この街道沿いにある積川神社の鳥居の額を見て新しいものに取り替えたので、その周辺の地域を「額原」と呼ぶようになったと言われています。


 
4.上松(かんまつ)・下松

 
 常盤校区の広域をしめるのが上松・下松であり、下松は校区内のJR阪和線の駅名になっています。
 この地域は平安の昔から松林が広がっており、松村と呼ばれていました。上松村と下松村に分かれ、そのまま現在の地名の上松・下松になっています。最近はあまり松林も見られなくなってきています。左は少し古いですが、校区の航空写真です。

5.条里制
 平城京の王権勢力の届く範囲内にここ常盤校区があったことが、奈良・平安時代の大きな土地改革の1つである条里制から分かります。常盤校区のJR阪和線より海側には条里制のあとが見られ、区画が美しく整備されています。
 ※条里制とは、古代の長さの単位である、1町(ちょう・約109m)四方の区画を1坪(つぼ)とし、坪を横に6個並べて1里(り)、縦に6個並べて1条(じょう)とした土地区画制度です。1坪の中はさらに10に分けられ、その小さな1区画は1段(たん)とされました。


 


6.草刈場
 戦国時代に、大阪と和歌山の間で領土を広げようと勢力争いが繰り広げられました。ちょうどこの地域が二者の領土争いの場になり、草刈場となりました。

7.おなり街道
 岸和田城から泉光寺まで続く参道です。泉光寺が菩提寺のため、岡部公がこの道を通り、お参りをしました。一説には、戦争のときに岸和田城から脱出して泉光寺へ逃げるのに使うための道だった、という裏の意味もあったのでは、とも言われています。



遺跡・建築物等

1.松塚
 前方後円墳跡です。古墳の周りに堀として作られていた川跡が今も用水路として形を残しています。また土塁の跡も残っています。池の間には須恵器をやいたかまどがあります。

2.円墳
 円墳はこのあたりにたくさんあるとのことですが、点在しているため、なかなか見つけるのは難しいようです。

3.和泉式部の筆塚

 
 和泉式部の最初の夫が和泉の国の受領であったことや、この地域には古くから泉がよく湧いたこと、小栗街道を多くの宮中の権力者が通ったことなどが重なり、この地域には和泉式部伝説が数多く残されています。しかし実際には宮廷女官である式部がこの地に来た可能性はないだろうと言われています。
 この筆塚もそんな和泉式部伝説の一つで、和泉式部の愛用していた筆をまつった塚と言われています。元の塚の場所は今は住宅地となり、石碑だけが場所を移されて残っています。

4.和泉式部の硯塚
 上の筆塚と対をなしている、和泉式部の硯塚です。和泉式部が筆と硯を投げたのですが、重い硯は手前に落ち、筆は遠くまで転がり、それぞれの場所に塚が建てられたと言われます。こちらも元の塚の場所は今はうどん屋となり、石碑だけが場所を移されています。この移された先が、史跡がこんな所にあっていいのか、というような辺鄙な場所で、教えてもらわなければ見つけられないでしょう。


 
5.和泉式部の恋の淵

 
 和泉は泉のよく湧く地、ということで、淵もいまだに現存しています。この淵は、和泉式部がここで顔を洗うと男性と巡り会うことができた、という由来から名づけられました。石碑には、百人一首に収められている和泉式部の歌、
  あらざらむ この世のほかの 思ひ出に
  いまひとたびの 逢ふこともがな 

 が刻まれています。

6.和泉式部の恋ざめの淵
 上記の恋の淵を対をなす淵で、和泉式部がここで顔を洗うと男性が遠ざかってしまった、という由来から名づけられました。


 
7.和泉式部のどんび淵

 
 こちらはどんび淵と言われる淵で、式部塚とも言われます。石碑には「かわずなかずのどんび淵」と記されています。こちらの淵は水は枯れているとは言え原型を留めています。

8.泉光寺
 土生町門前にある寺で、旧岸和田城主・岡部公の菩提寺です。初代岡部宣勝から始まり、二代行隆、三代長泰、四代長敬、五代長著、六代長住、七代長修、八代長備、九代長慎、十代長和、十一代長発、十二代長寛、そして十三代長職までの墓と、長職の後に岡部家を継いだ長景の墓があります。また、泉光寺には軍曹以上の墓が多くあります。これは明治で軍曹などの位に就いたのは元士族の人々が多く、そのため岡部藩の菩提寺である泉光寺にもこのような墓があるわけです。碑の年月日から太平洋戦争の広がっていくさまが分かり、元士族が太平洋戦争でほぼ全滅したであろうことが伺われます。



 




だんじり

 岸和田と言えば何と言ってもだんじり祭り。常盤校区は山手の南掃守地区に属します。南掃守地区には、尾生町・中尾生町・福田町・下松町・西之内町・八阪町・上松町・山下町の八つのだんじりがあり、宮入は菅原神社と兵主神社の二ヶ所に分かれます。以下が宮入の場所です。
  菅原神社: 尾生町 中尾生町 福田町 上松町 山下町
  兵主神社: 下松町 西之内町 八坂町